教えるとき、何かを伝えるとき、一番始めにすること。それは相手を見ること、聞くこと。
相手が求めること、相手の為になる方法を見出すことから始まる。
どの程度理解できるのか、話したとしてどう感じると予想できるか、どんな話し方が素直に受け止めてもらえるか考えてみる。
人に理解してもらいたいなら、まず、自分が相手を理解する必要がある。
そうであればこそ伝わる。
教えるとき、何かを伝えるとき、一番始めにすること。それは相手を見ること、聞くこと。
相手が求めること、相手の為になる方法を見出すことから始まる。
どの程度理解できるのか、話したとしてどう感じると予想できるか、どんな話し方が素直に受け止めてもらえるか考えてみる。
人に理解してもらいたいなら、まず、自分が相手を理解する必要がある。
そうであればこそ伝わる。
人の人生を見るというのは生き方を見るということ
生き方と言ってもピンとこないでしょう。
生き方を見るというのは、人の心や思い、気持ちを見るということです。
しかし、心とか気持ちというものは目に見えないものです。
その目に見えないものを見るということは、意図を読むということです。
人の言葉や行動からその裏側にある意図を汲み取るのです。
それが、戻って人生に思いを馳せ、生き方を見つめることです。
ここで、思い出を振り返り、見出した生き方が、私たちの人生を生きぬく新しい方法のひとつなります。
そして最も重要なことは、人の心を汲み取るということです。
心というのはなかなか見通しがたいものです。
自分の心すら同じです。
自分の心すらもはっきりと見えていないのです。
今どう感じましたか?何を言い出すんだと、反発する気持ち、どういう意味だろうかと興味を抱く、よくわからないことをという無関心の心、どんな気持ちがあるか見つめてみてください。はっきりと自覚できますか?
自分の感情がはっきり分かると、心が静まります。逆に自分の心がどう感じているか見えていない時、イライラしたり不安になったり、怒ったり、楽しいはずのことがつまらなく感じたりします。
お葬式では、故人の人生をまざまざと見せられ、普段なかなか面と向かって見れない、思いや生き方、志がはっきりと見えてきます。
故人こ心が見えると、次は自分の心を見つめてください。
自分の心が見えてくると、普段の生活でも他人の心がだんだんと見えてきます。
自分の感情が見えると心の波が静まり、心は安らかになります。
人との関わり合いは意図を読み、汲み取るところから始まります。喧嘩や衝突はなくなり、物事は円滑に進むようになります。
一朝一夕ではできませんが、その始めの一歩が亡くなった人の生き方に思いを馳せることです。
故人が今最後に残してくれた学びの場であります。
ご先祖様がいるから今の自分がいる。
この人がいたから自分は生まれたのである。
それだけではない。
ああ、あの思い出があるから私は今こうやって考えている。
あの時の姿が記憶にあるから、今私はこうして行動している。
過ぎ去った時間と今の自分との繋がりが見えますか?
それが学びなのだ。その学びが繋がりなのだ。
繋がりが積み重なり人はできている。
だからその人がいて今の自分がいるといえる。
人の繋がりは思い出の中にある。
どうでもいいことは覚えていないもので良い思い出も、そうでないことも、他愛のないことも、思い起こされることは全て、私の中に蓄積されている繋がりなのだ。
覚えているということはその時に何かを感じているはず。何かを思ったことがあるはず。
何かを考えたはず。
そしてその考えを持って今生きているはず。
まさに人からの学びである。
まさにそれこそが繋がりである。
亡き人の人生に思いを馳せると、普段気が付かなかった繋がりに気が付く。
今まで見えていなかったことが見えてくる。
この場では、目に見えないものを見えるようになってもらいたい。
心や思い、志を見て考えてみてほしい。
亡き人が命尽きて最後に皆さんに残してくれた学びの時なのだ。
自分が周りに影響を与えるということ
影響を受けるとは感じること
影響を与えるとは人を育てること
前向きなことであれ、否定的なものであれ、何か思ったときにはすでに影響を受けている
その気持ちが言葉や行動、或いは表情や様子に現れ、周囲の人にまた影響を与える
だから記憶を辿り、自分の気持ちを探れば、どういう関わり方をして今の自分がいるのかが見えてくる。同時に自分の感情がどのように表面に現れて、人を育てているのか見えてくる。
法事はひとつ、心を読む場所です。
故人の心を読む。思いを読み取る。それが思いを受け継ぐことです。
縁という教えがあります。人と人との繋がりに「ご縁がある」という言葉がある。この縁です。ただし、仏教の教えにおいては、万事において繋がりがあると言うのが縁の教えです。物事すべて、結果があるなら、原因がある。行動があるなら、理由がある。理由や原因が結果や行動に繋がっている。だから、逆に人の行動や姿からそこに繋がる思いや気持ちを知ることができるということです。
普段は気がつかなくとも、振り返ってみれば、ということもあります。例えば、子供の頃は分からなかったけど、大人になって、昔の父や母の行動が自分の為、家族の為、周りの人の為だったのだと気がつくこともあるでしょう。
亡くなった人の姿を、今はもう見ることは叶いませんが、記憶の中には思い出としていろいろな姿があるはずです。
心や気持ちというものは目に見えませんので、なかなか知り難いものです。自分の心でさえ見えなくなることはあります。怒っているときは我を忘れるというし、何かむしゃくしゃする、イライラするというのは理由が分からず、自分のことすら見えていないという時です。
自分の心が見えればこそ、人の気持ちも考えられるようになります。自分が分かって、何事もお互い様のことがある思えばこそ、人の心が見えてきます。
実は手を合わせると、心が動きます。落ち着いたり、或いは思いが込み上がって悲しみが溢れるかもしれない。心が静かになって、気持ちの奥底が見えてくるかもしれない。まずは、じっと手を合わせて、心の様子の動くことを感じでみてください。
今悲しくて涙が出て仕方ないということはないかも知れませんが、近しい方がいないということは、悲しみや寂しさ、惜しむ気持ちがあるものです。悲しみは楽しい時間があればこそ、生まれるものですし、寂しさや惜しむ気持ちの裏には、その人のおかげで今の自分があるという感謝の思いがあるものです。そ
他人に感謝しなさい、ありがたいことだよと言われたとて、なかなかその様な気持ちにはなるものでもありません。だから、自分の心を見つめて、心の奥底にある気持ちを探してみるのです。普段意識しない弱い気持ちが見えたり、或いは信念のような思いが見えるものですが、そこで見つけた気持ちは本当の自分の思いです。
人の姿や行動、表面的な部分を見ていても、深い奥にある気持ちや思いは見えてはきません。深く目に見えないものを見通す目が必要です。自分の心の奥深くが見えればこそ、他人の姿の奥深くも見えることでしょう。
ご縁があるといいますが、ただ出会ったというだけでない。普段の生活においても、お互いの心が分かる、お互いの意図が伝わる関係は心安くいられる一生の繋がりです。
人と喧嘩をする。争いをする。
子供が生まれると、生活が大きくかわり、夫婦ともども変化に対応するために苦労する時期があります。産後クライシスと言われたり、育児ノイローゼや産後ブルーなどと言われるものです。
大変な時、つらい時には誰かに、支えてほしいと思うものですが、相手も同じだと、なかなか自分を支えてもらうとはいかないものです。それどころか、自分が相手を支えたあげなければならないこともあります。それはつらい時に尚のことつらいものです。
そのつらさに耐えて、相手を思ってやれるかどうかが、人の強さであり、精神的なレベルの高さです。
もし、相手が逃げてしまうのであれば、まだ精神的に幼いということです。自分もまた、耐えがたいと思うのであれば、まだまだ未熟であるということです。それは、心の強さや人を思う優しさを教えてもらえうことが足りなかったからであり、自分の精神の鍛え方が足りなかったからです。
だすが、今未熟だからといって、もうどうにもならないという訳ではありません。今の未熟なところからさらに成長してゆけば良いのです。
人を支えてあげられるのは、自分を自分で支えられる強さと、人を思ってやれる優しさがあるからこそです。誰かを支えてあげられるなら、自分の強さと優しさに自信を持ってよいでしょう。
つらくともできるならあなたは強く優しい人です。
さらに、人を成長させてあげられるのは、相手より精神的なレベルが高い人です。
相手が未熟で幼いと感じるのなら、あなたがその人を成長させてあげることができるということです。
支えるとは心を支えるということです。安心させてあげるということです。話しをさせてあげることです。話しを聞いてあげて否定はしない。頷いて、気持ちを汲み取ってあげることです。
相手の言葉をすべて受け取ってあげる。ただし、そのまま間に受けてはなりません。否定されても返さない。返さないがそのまま自分が悪いと思うこともない。相手はそう思っているんだなと考えることが、言葉を受け止めつつも、間に受けないということです。すべて間に受けていてはやはり自分が耐えられなくなります。受け方を知ることも自分の成長です。
相手を成長させる為に教える方法は言葉ではありません。言葉も良いですが、まずは姿を持って見せることです。相手の話しを聞くことは、聞く姿を見せるという意味もある。聞く姿が伝われば、こちらの話しも聞いてくれるだろう。目指すのは相手をより良く成長させること。
ただし、姿を持って教えることは時間がかかることである。一朝一夕では伝わらない。これも耐える時間が必要である。時間をかけることで、これから先、今より良くなっていくということをイメージしなければならない。耐えることで、物事が前進するからこそ、つらい時期を耐え忍ぶことができるもの。より良い未来を心に思い浮かべて、そこまでの道筋に思考を巡らす。それが、つらい時を乗り越える方法である。
また、当然影響を与える人は自分1人ではありません。周りの人からの影響もあります。だからこそ相手をよく知り、相手の生活環境や、育ってきた環境まで見つめ、その上で、その人に合わせた接し方をする必要があります。特に育った環境が与える影響力は大きいです。つまり親や家族の影響を受けている部分は、その良し悪しに関わらず変化させるには長い時間がかかります。焦れば衝突に繋がり、衝突すれば道のりは余計に長いものになります。
人を成長させるには時間がかかります。その間は耐える時が必要にもなります。それは、自分にとっても苦しい時間になることもあります。自分とて、支えは欲しいものです。それは、自分を確立し、心に芯を持つことで、自分を支える。気晴らしや趣味によって、自分を癒やすことが、第一となりますが、やはり誰かに頼りたいと思うこともあるものです。他の誰かに頼ってもよいでしょう。親や兄弟、或いは友人。心許せる人や、理解してくれる人と接することも長い通のりを行く時には大切です。ただし、飽くまでより良い関係を築いていくことが目的ですので、自分を癒す為だからといって後を引くようなことは控えるべきことは心に留めておくべきです。
人は変わるこれは前提です。自分も変わりますし、他人も変わります。年齢も関係なく、若い人だけでなく、社会人になった人も高齢と言われる人も考え方は変わっていくものですし、それにともない、精神的なレベルも変化するものです。永遠に変わらないことはないという意味の無常という古くからの言葉もあります。
大切なのことは、変化した後どのような姿を目指すのか。どのようすることが目指す変化に繋がるのかです。
話しを聞かせたいのであれば、聞くという姿を見せることから始める。
人は第一に姿を見て学び、第二に言葉で学ぶ。
人は他人との関わり合いながら、影響を受け、影響を与えながら変わっていく。
まず、自分の姿が相手に影響を与えることを知るべきである。
特に一緒に生活する家族から受ける影響は大きいものである。しかし、友人や社会など影響を受ける場面は多くあり、家族だけが影響を与えるという訳ではない。だが、それでも親が与える影響は特に大きい。
また、人の心は生活環境の中で少しずつ変化していくものである。ただし、それは少しずつである。小さな変化は自分でも気が付かないことも往々にしてあるだろう。だから、焦ってはならない。時間のかかることと心得て臨むものであると同時に、小さな変化の積み重ねがいづれ大きな変化に繋がると知るべきである。