坐禅は「する」を続ける修行
坐禅と瞑想の違いを問われたことがあります。その時は、はっきりと答えられませんでした。
それから初めて、何が違うのか、坐禅が大切であるといえる意味を考えるようになりました。
坐禅も大きな括りで言えば瞑想です。インドに始まり、元を辿れば瞑想です。
仏教を開いたお釈迦さまも悟りを開く前に瞑想を学ばれていました。
であるので、はやはり坐禅の中にも瞑想が流れているといえます。
では、何が異なるのか。何故ただ瞑想をするだけではなく、坐禅をすべきなのでしょうか。
初めに、今至っている答えを言えば、「する」ということが坐禅に込められる大きな意味であるといえます。
曹洞宗の教えに修証一如というものがあります。
修行をすること、していることと、悟りを開いた姿は別々ではない。修行をした。その結果悟ったということではないと言うのです。
この教えでは修行している姿、それが正しく悟っている姿であるとしているのです。
しかし、実際、修行を始めたばかりの者が悟ったと言えるのかと思っていました。
仏教の教えの中心は慈悲の心です。
簡単に言えば人を思いやり、優しくすることです。教えに学んで、そんな素敵な人を目指すことです。
さて、皆さん、他人の気持ちを思いやって、親切にすることができていますでしょうか。
なかなか、返答に困ってしまいますよね。
友人、気の合う仲間なら、その人のために何かしてあげようと思うこともあるだろうし、家族なら多少ぶつかり合っても、相手の気持ちを尊重して、まあ自分が折れて、受け止めてあげようという気持ちになるのではないかなと思います。
それは、とても素晴らしい姿です。正に、相手を思いやる慈悲の心のある姿であろうと思います。
逆にどうしても、疲れていたり、いらいらして、周りのことも考えられず、当たってしまうこともあるでしょう。
見ず知らずの人、例えばお店の店員さんが気を利かせてくれたのに、一言感謝の言葉を掛けることもせず、素っ気ない感じになってしまったり、運転していて、譲って欲しそうにしている車があったも、つい通り過ぎてしまったり、そんなこともあるかもしれません。
しかし、それも、人に親切にしようとその時意識していれば、できていたことだろうと思います。
そうです。しようと思えば、できることなのです。
慈悲の心と言ったって、できぬことまでしろというのであはありません。
自分のできる限りのことをしてあげるだけのことです。
慈悲の教えは、ただ人を思いやる気持ちを自分の内に持つようにと説いているのみです。
相手への思いやる、その気持ちに従って行動するだけです。
それは、誰とてできます。
ただ、しているか、ついついせずに通り過ぎてしまうかだけです。
親切にしている人を見かけると、素晴らしい姿だなと思います。
坐禅は、いつでも「する」ことをやめず、行い続けることが大切なのです。
そしてまた、いつでも気持ちを思って行動することは、難しことでもあります。
だからこそ、行い続けることが、誰においても修行であるのです。絶えず自分を磨くことに励み、その結果成長してゆくのです。
本心はいつ表れるか
本心は怒ったときに見えるのだろうか?
実はそうではない
怒っているとき、人は冷静ではない
冷静ではないときに、本当に言いたいことを正確に表すことなどできない
では、なぜ、怒った人の言葉を聞いて、あれがあの人の本性だと言う人がいるのだろうか?
怒ると確かにいつも言わないようなことを言ってしまうものだ
それを聞いて普段と違うことを言っているから、それがきっと本心だと、早合点しているだけである
先にも述べた通り、冷静ではないのだから、冷静ではない、考えもまとまらずに口走っているだけである
では、なぜ、普段と違うというだけで、それを本心だと勘違いしてしまうのか
それは元々、相手の言葉の意図や、人の気持ちが見えていないからである
人の意図や気持ちを汲み取れない人が、何が言いたいのか、どんな心持ちでいるのかわからないので、少しいつもと違うことを言っているのを聞いて、本心が出たのだと、謝って当たりを付けているだけなのだ
そもそも、本心は相手に出してもらうものではない
何か特別な時、心を許した時に見せてくれるのではない
受けてが読み取るものである
例え、表に出すことが苦手であっても、隠していても、自然と表れ、滲み出てくるものである
いつでも、言葉選びや態度、語気の強さや声の大きさ、視線、姿勢など、よく見てみれば表れている
平常の会話において、本心が読み取れているなら、怒っている時の言葉が本心ではないことがよく分かるのです
分かるのであれば、怒りの言葉を聞いて思うことは、怒ってしまっていることに対しての哀れみや同情の念である
怒っている様子を見て、怖いと思うのであれば、まだ本心が分からないでいるのであろう
怖いという気持ちはどんなときに起きるのか?
怖いは分からないこと、不可解なことに感じる気持ちである
自分の心に怖いという気持ちがあるのは、正に相手の心が見えていない証拠である
もっと相手の話しをよく聞き、相手の様子を良く見れば、違った見え方ができるようになる
本心は平常時こそ自然と表れると話したが、その中でも特に表せられる時がある
それは相手の気持ちが自分に向いている時である
気持ちが自分に向くとはどういう時か?
あなたの為ですと言って話しをしてくれる人でも、実は、自分の利益になるから話している人もいる
例えば悪徳な営業であったり、詐欺に合わせようとするような人である
そこまででなくても、自分の都合を加味しつつ、話すようなことは誰しもあることだろう
その中で、自分の利益にならなくとも、相手の都合を考え、相手の利益なることに重点を置いて話しをする時、自然と本心を伝えようと必死になる
その時こそ、本当に本心がはっきりと表せられるのである
その人は冷静に落ち着き払った姿をしているもなである
怒りを本心と思う者も、怒る姿を見て怖いと思う者も、実は本当の心を見る目を持っていない
本当の心を見る目を養いたいものである
そして、心と心を通わせた、本心よりの会話をしたいものである
効率を求める、突き詰めて極める
今の時代、多くの人が効率を求めている
お店に行けば並ぶ商品は便利を謳うものが多い
手間が掛からず、時間が掛からず、それでいてある程度の成果が得られるというものだ
或いは、一つに多くの機能を持たせたものであったり
開発した方が知恵を絞り、生活がより良くなればと願い、生み出した素晴らしいものである
効率の良いもの、商品というものはとても魅力的です
では、人の生き方において効率を求めることはどうなのか
効率が良いというのは、一定の行いにたいして、得られる成果が大きいということである
1つの行動に対して2の成果が得られれのと、0.5の成果が得られるのとでは、当然前者の方が効率はよく、選択肢としては良いものである
しかし、効率を求めるは全てにおいて良い選択にはならないことを知っておきたい
1日の時間は皆同じであるが、その中で何をするか、どれだけ行動するかは人それぞれ、また、時々である
前者のように効率を求めれば、1つの行動で2の成果が得られる
一方で後者であっても、5つ分の活動をすれば、より大きな2.5の成果を得ることできる
言葉で説明すれば、ここで当然のように、では効率よく5倍分の行動をすればもっともっと大きな成果が得られる
やはり効率は良い方がいいだろう、と思えるだろう
しかし、今は物について考えてはいない
人について考えている
効率を求める時、大きな結果を求めると同事に、労力が少ないことを考える
その双方を比べる割合が効率であるから考えることは当然である
効率は何においても良しとする人は、常に労力の少ないことを考える
そんな人が1つの行動で済むのに、5倍の労力を掛けるだろうか
十中八九、余分な労力は掛けないと思う
何においても良いと思うこと、常に意識してることは、知らず自分自身に刷り込まれていく
刷り込まれたことは、意識しなくとも、その通りに考える
考え方にも人それぞれ癖がある
繰り返される習慣によって癖はつき、自分ではその都度よく考えているつもりでも、いつも同じ選択や反応、思考をしてしまう
そうなれば何倍も労力を掛け、行動を重ねる人に、結果の大きさで勝ることができない
まして、労力を減らすことを意識する人はもっと行動を減らそうとする
まだ動けるのに動くことを減らそうとする
であれば、なおさら単純な結果の大きさでは及ばない
私たちは数字の世界で生きているのではない
現実に結果だすこと、目標を達成すること、夢を叶えることを目指している
その目標に到達できるように、行動できることはすべきである
労力を惜しむことを考えている場合ではない
効率は良い
効率良く物事を達成できた分、浮いた労力や時間を他に回せるのだから
生き方において効率という考え方は、より多く行動する為に活かすのである
逆に、効率が悪いことをあえてする意味はあるだろうか
効率を求めるなら、効率が良いと思える部分だけを選び、割に合わないと思えることは切り捨てていくことになる
美味しいところだけを取るということ
それ以外の部分は、例え小さな価値があっても取らないということ
しかし、大きな結果が得られなくとも、他では得られない価値もある
効率の良し悪しを考える時、悪い方には、良い方に勝るところは何もないかのように考える
当然、数字ではっきりしていて、完全な下位互換であれば選択の価値はない
だが、現実のこと、人のことであればそんなはっきりとすることはない
効率の良いことと、悪いこと
別の行動をするのだから、経験できることもちがう
下位互換ではなく、異なる選択肢なのである
小さなこと、直接結果に結びつかなくとも、価値があるのに切り捨ててしまうというのは、本当にもったいないと思う
また、「直接」というのは、暗に間接的に影響するという意味が込められている
どこがどう繋がり、どう回り回って結びついていくの、見えるようになれば、そうそう無下にはできないはずだと思う
小さな経験であれども、そこでしか得られない経験が積み重なって、人間として深みで生まれる
人としてという表現は分かりづらいと思うが、やはりそう言いたくなる
人に深みがでてくると、考え方が深く、柔軟になり、他人を受け入れられるようになり、苦境にあっても折れない心を持てるようになることだと考えている
そんな人間になりたいと思っている
また、効率を求める場合、即座に結果が得られることを重視しがちになる
時間を掛けて、目標に近づいていくという思考が持てなくなり、大きな目標に対して、挑戦しようとする気持ちが持てなくなる
これも前述と同じように、最終的に大きな結果を出すことが難しくなる理由のひとつである
一見して効率が悪いからとて、それで判断をするばかりが良い選択にはならない
効率という割合の良し悪しではなく、物事一つ一つを見て、そこにしかない価値探すことに意味があると思う
最後に効率を求めることの逆は、突き詰めて極めることだと思う
効率が良い部分だけを取っていくのに対し、全てを経験し、あらゆる能力を身に付け、他が真似できないことまでできるようになることが極めることではないだろうか
効率を求めれば、皆同じような道筋を辿ってゆく
そうすれば、結果も同じ、行き着く答えも同じ、できあがる人間も同じ
面白みもなく、価値も見いだせなくなってくる
人はみな違う
だから、面白い
だから、価値がある
効率が良いとか悪いとかは考えない
例え小さかろうと価値があるなら、その価値をかき集める
あらゆる事を経験し、或いは、自分の専門に少しでも関わることを何でも学び、身に付け、糧として積み重ねていく
それが突き詰めるていくこと
その結果、他には簡単に真似できない極めるという極致に達するのである
迷わず歩んで行ける、日本の視点
過去を振り返ると言うと後ろ向きなイメージを持たれる
ですが、元々はそうではない
日本人の視点は自分の足元を見るという視点なのです
自分が立っている土台を固めて、自分の足でしっかりと立つ
大変なことが起きても確かな土台の上に、自分の足で自立して立っているから踏ん張れる
それが、日本の視点での過去を振り返ることです
では、どこ向いて歩んで行けばいいのか
前を向く、これからの未来を見るというのはどういう視点を持つことなのか
皆つい上を向いてしまうんです
高いところ、偉いは人、有名な人が何をやっているか見て、あれがいいな、ああなりたいと思うんです
でも、上を向いても今の自分とかけ離れていて、ではそこを目指して歩みを進めようと思っても、どう足を運んでよいのか分からなくなる
上を向いて、つま先立ちで立っていては、地に足がつかなくなります
前を見るというのは、先を見るのです
真っ直ぐに上でも下でもなく、自分の目線で先を見て歩むということが前を向くということです
地に足がついていて、自分の目線で真っ直ぐ先を見るから、迷うことなくどこまでも進んでゆける
上を向いて歩かなくとも、前を向いて一歩一歩進む内に、気がつけば高いところまで登っているものです
下の人を育てる
下の人がすべきだと思って行動している時、見守ってあげたい
それが自分がしてきたことと違っても、まずは見ていてあげる
取り返しのつかない失敗をしないように見ていて、そんな時だけ止めに入る
そうでなければ見ていて守ってあげる
初めから止めればやる気をそぐことになる
少し背中を押せば、自信を持って行動できる
見守って貰えていることで安心して臨める
自分で考え行動することが人を成長させる
教育は教えてあげることだけではない
自分自身の力で成長できるように助けてあげることも育てることである
気を遣うから元気になる
気を違うのであれば、人のために気を違うことが良い。
気を遣えば気が減ります。
沢山使えば気がなくなり疲れます。
気持ちが疲れるということで、気疲れと言ったりします。
自分の心配をしたり、不安のため、自分の見られ方のために気を使えば、気を失うだけで、疲れて終わりです。
しかし、相手が喜ぶように気を遣えば、相手から嬉しい気持ちを示してもらえたり、感謝の思いを向けてくれることがあります。
気持ちをもらう。気をもらうことができるのです。
気を与えてもらえば、気は満たされます。
前向きな気持ちが溢れれば、心は元気になります。
人のために気を遣うことは、自分の気を消耗しようとも、それ以上に気を受け取り、気を満たすこととなるのです。
気が巡り、常に生気のある気で満たす。
幸せとは喜びの気持ちを満たすこと。
人のためを思うことは楽しいものです。
病気になり、気持ちが塞ぎ込む人に
衣でコンビニなどのお店に入ると周りの人の視線を受けます。なので着物を着て、衣を着て出歩くは気が引けると和尚さんもいます。
ですが、私は衣を着ている時でもコンビニに入りますし、買い物もします。やはり周りから見られますし、視線を受けたいとは思いませんが、気にはしません。
和尚は生き方です。仕事の為に衣を着ている訳ではありません。僧侶として生きていることが私という人間です。
私は私の生き方を誇りに思います。生き方は私を支える大きな柱です。この柱に支えられているから、外から押されても揺らぎはしません。
だから視線を受けようともそれで隠れよう、やめようとは思わないのです。
昨日、寝違えたようで、朝から首が痛くて回りませんでした。首が回らないので、振り返ろうとして不自然に視線だけ向けていると、変な顔をしていると笑われました。笑われるのは嫌ですが、笑われようともやることは変わりません。首が回らない中でできるだけのことをしています。首が回らないと嘆いても、首が回らないのが今の自分です。
どこまでいっても、今ここから何ができるか。今この状況でもできることをする。それが気持ちを前に進め、状況を変えていく方法です。
辛い時、自分を受け入れることは尚辛いものです。前を向いて気持ちを明るく持つことは並大抵のことではありません。そんな時でも身近な人はあなたを見ています。笑うのではなく、心配し、思って見ていてくれます。もし、あなたがこの辛い状況から抜け出し、立ち直るなら、見ている人はその姿が心に残ります。
誰でも少し悲しい出来事や大変辛い時期というのはありましょう。その時に助けとなるが、手本となる誰かの前を向く姿です。
あなたは辛い時にこそ前を向くことを教えてあげることができるのです。
自分が辛い時に他人のことを考えることはなかなかできません。しかし、自分のことを考えれば尚気持ちは暗くなるものです。辛い時にこそ、周りに、外に目を向けるのです。