心の置き場

普段考えてることを記す

病気になり、気持ちが塞ぎ込む人に

 

衣でコンビニなどのお店に入ると周りの人の視線を受けます。なので着物を着て、衣を着て出歩くは気が引けると和尚さんもいます。

ですが、私は衣を着ている時でもコンビニに入りますし、買い物もします。やはり周りから見られますし、視線を受けたいとは思いませんが、気にはしません。

和尚は生き方です。仕事の為に衣を着ている訳ではありません。僧侶として生きていることが私という人間です。

私は私の生き方を誇りに思います。生き方は私を支える大きな柱です。この柱に支えられているから、外から押されても揺らぎはしません。

だから視線を受けようともそれで隠れよう、やめようとは思わないのです。

 

昨日、寝違えたようで、朝から首が痛くて回りませんでした。首が回らないので、振り返ろうとして不自然に視線だけ向けていると、変な顔をしていると笑われました。笑われるのは嫌ですが、笑われようともやることは変わりません。首が回らない中でできるだけのことをしています。首が回らないと嘆いても、首が回らないのが今の自分です。

どこまでいっても、今ここから何ができるか。今この状況でもできることをする。それが気持ちを前に進め、状況を変えていく方法です。

 

辛い時、自分を受け入れることは尚辛いものです。前を向いて気持ちを明るく持つことは並大抵のことではありません。そんな時でも身近な人はあなたを見ています。笑うのではなく、心配し、思って見ていてくれます。もし、あなたがこの辛い状況から抜け出し、立ち直るなら、見ている人はその姿が心に残ります。

誰でも少し悲しい出来事や大変辛い時期というのはありましょう。その時に助けとなるが、手本となる誰かの前を向く姿です。

あなたは辛い時にこそ前を向くことを教えてあげることができるのです。

自分が辛い時に他人のことを考えることはなかなかできません。しかし、自分のことを考えれば尚気持ちは暗くなるものです。辛い時にこそ、周りに、外に目を向けるのです。

 

心を知る

心は誰にでもあります。

嬉しいな、楽しいな、悲しいなと思ったり、怒りが湧いたりする。誰でもそう感じることはあります。

自分にも心はあります。他人にも心はあります。

では、心を見ることはできますか?

心が見えていますか?

 

他人がどう思っているか知りたくても、わからないということがあります。

そんなときは相手の心が見えていません。

 

なんだかむしゃくしゃする。急に怒りが湧いてきた。それは自分の心が見えなくなっています。

 

人の心もそうであるし、自分の心であっても、見えなくなり、分からなくなることがあります。

 

心を見るには、気持ちを感じ取れる感覚を養うことです。

 

ああしたい、こうしたいという思いがあって、実現するための方法を考え、行動を起こします。目に見えるのは行動の部分だけですが、思いと、考えと、行動はそれぞれ繋がり、結びついています。

この繋がりを知ることで、行動や姿、言葉から相手の考えを読み取り、その奥の思いを知ることができます。

 

 

雑記 通夜のこと

感謝は自分の内側から生まれるもの

なぜ感謝が生まれるのか

繋がりがあるから

その人の姿、考え方、心のあり方がある

それを見てきたから今の自分の考え方がある

目に見えない心や繋がりがどこまで見えるか

集まった人は皆何かしらの関係がある

繋がりは思い出を振り返れば見えてくる

祖父、

父の姿、兄の姿、母の姿

良い思い出ばかりではないけれど、この経験があって今の自分がある

どうでもいいことは覚えていない

どんなことであれ、残してくれた大切な記憶

記憶は共有できる

人の思いも自分の気持ちも見えがたい

足を運んだだけの気持ちがある

思い出を振返り、思いを掬い取る

その思いを手向けてあげる

花を手向けるように

作法

 

 

最後に思いは伝わり心の中で生き続けます。

皆さんが考え、見い出した繋がりや心のあり方は全て皆さんの中に積み重なっていきます。そうすると今度は自分自身の考え方や心のあり方をどう繋げていくかということを考えるようになります。

皆さん悩んでいる時や挫折した時どうやって立ち直りましたか。それが皆さんを支えてきた生き方です。それを残してあげたら他の人の人生を支える一番の財産になると思いませんか。

お参りは過去を振返るだけではない

祈りはこれから先の為のもの

他人の行動が理解できない人の行き着く先

他人の意図を汲み取ることができない人は結局自分の頭の中で考えていることしか見えていない。

そういう人は他人を見るということをしないからいつまで経っても他人を理解することができない。

他人を理解できず、心を許すことができない。

誰も信用することができない。

行きつく先は寂しい人生を送ることになる。

 

心を思いやる意味

なぜ思いだとか、生き方、考え方が大切だというのか。

人は考えから行動を起こす。

思いに従って人に接する。

考え方や思いが姿に現れるからだ。

 

他人の心は見え難い。だが、自分の心すらも、見えなくなり、イライラしたり、急に怒りが湧くことがある。

 

しかし、葬式では、故人の一生を振り返り真っ直ぐに見つめられる場となる。故人の生き方や思い、志が見えるようになると、自分の気持ちも見えてくる。自分の心が見えてくると、他人の気持ちにも思いやれるようになってくる。

 

人の行動と気持ちが繋がると衝突しなくなってくる。なぜわかってくれないんだ、なぜそんなことをしてしまうんだという、なぜということが分かるようになるからだ。

 

 

 

 

感性と安心

教えは感性で感じればよいのです。

感性はすでに日本人として生まれ、育った中に眠っているものであり、磨くものでもあります。

ただ、どう感じるか、問いかけ、じっと考えてみればよいのです。

 

感性のままに、そのまま感じとれるようになるだけで、心は軽く、安らかななります。

 

実は私たちは人の心も、自分の心すらもはっきりと見えなくなります。

イライラしてきたり、急に怒りが湧いてきたりとき、自分の気持ちが見えなくなっています。

或いは、なぜわかってくれないのか、何を考えてるか分からないと不安になります。

 

なぜ、イライラしてるのか、なぜ怒りが湧いてくるのか、相手がなぜ違う受取り方をしたのか、なぜ私と違う考え方をするのか。

心を見えるようになると、その答えがでます。

その答えがはっきりと見えた時、怒りも忘れ、不安も無くなり、霧が晴れ、波が鎮まったように、心が落ち着きます。

 

生活においても仕事においても、人間関係に関わらず、人の奥底、物事の深みを見透す視点を持つことが、感性を磨く意味です。

 

人の一生に想いを馳せ、手を合わせる自分自身の心の動きに思いを寄せてみると、本心が見えてきます。

難しいという言葉を力にしてゆこう

難しいと口にする人の気持ちは2通りある
1つが、後ろ向きなやりたくない、関わりたくない気持ち
もう一方は、立ち向かい挑戦する、意欲のある気持ち

 

大抵の人は前者の気持ちで口にし、自分に気が引けた気持ちがあることにすら気がつかない
しかし、後者の気持ちを表す者には、奮い立たせ、立ち向かエネルギーを与えてくれる。

 

また、聞く人はその気持ちを感じとる。

気が引けた人に見習おうと思う者はいない。

前に進み続けようとする志のある者にこそ、人は付いて行こうと思う。

 

難しいと思うのなら、本心では不可能と思っていない。

難しいと思うことにこそ立ち向かっていこう。

難しいという言葉は覚悟を決めた証明。

難しいと口にすることは向き合うということ。

前に進むということは、後ろに道ができるということ。

道ができれば後に続く人もいるだろう。

その人たちはあなたの背中を見て歩むのである。

 

難しいという言葉を力にしてゆこう。